一応、東大女子ですけど、すみません

恋愛とか人間関係とか、ふつうの東大女子による些細なあれこれ。

彼氏がいないことは人間的欠損か?

周りの友達にはみんな彼氏がいる。のろけ話をいつも聞かされる。「えー〇〇ちゃんも彼氏つくればいいのに!」。

インスタを開くと、彼氏とのツーショットのオンパレード。よくわからんハッシュタグがめちゃめちゃ付いている。

雑誌や少女漫画は、彼氏ができることを人生の目標であるかのように描く。

雑誌の中のモデルが、少女漫画の中の主人公が、それを読む私を、上から眺めている。私のこと羨ましいでしょ?と言わんばかりの眼差しだ。

 

狂ってしまいそう...

いや、もとから狂っているのかな、私?

 

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彼氏がいなくても私は私であることに満足している。

最高の女友達がいる。

最高の男友達もいる。

最高の音楽と漫画と本に囲まれて、勉強も結構楽しい。

それで何が悪い。

 

彼氏がいる女が優位に立てるのなら、そんな彼氏は、ただのファッションに過ぎない。

グッチのカバンとか、コーチの財布とか、エルメスの服とか、見栄えのする彼氏とか。

自慢するのは結構だが、価値観はひとそれぞれだ。

資本市場で高い価値がつくことと、私の中で高い価値がつくことは、何の関係もない。

逆に資本市場と自分の価値が一致しちゃったら、なんかそれってつまらない人生だな、と私は思うから、私は、自分を欠損だとは思わない。

 

 

東大に入ることは全然難しくない

 

東大がキャンパスツアーというのを開催している。

私はキャンパスツアーガイドの一員で、地方の高校生に東大のキャンパスを紹介して歩く...というのをやっている。

 

その際、地方の高校生が口をそろえて「私に/僕に東大なんて無理だよ」と言うのだが、これだけは言わせてほしい。

無理じゃない!東大なんて簡単だ!

 

ドラゴン桜じゃないけど、東大ってほんとに簡単だ。

10年前だったら、地方には塾があまり無かったりして、そのせいで東大を諦めざるをえなかったかもしれない。

でも今は違う。

東進なら、東京と同じ授業を地方でも受けられる。

Z会でも良いかもしれない。通信教育はどこでも受けられる。

お金がない?それなら、Youtubeをみればいい。勉強を教えてくれるユーチューバーが沢山いる。

無料の勉強アプリがある。

 

「うちの高校から東大なんて、4年前に1人出ただけだから…」

そんな理由で諦めないでほしい。

東大生を、「めちゃめちゃ頭のいいひと」だと思っていないか?

東大生は、超ふつうだ。

東大生の私が言うんだから、ほんとうだ。

 

もちろん、東大のうち上位1割くらいは、めちゃめちゃ頭がいい。

でも、残りの8割は、普通に勉強した普通の人。

最後の1割は、「なんで東大には入れたの?」と周りにからかわれるような阿保である。

 

 

ちょっと勉強が苦手な普通の子にこそ、伝えたい。

死ぬほど勉強をする必要はない。

スーパー天才的な頭脳を持っている必要もない。

ただ、東大に入りたい、と思うだけで、そこに道は開かれている。

教科書をきちんと読むこと。

過去問をきちんと解くこと。

学校の定期試験を頑張ること。

間違えた所を放っておかないで復習すること。

全国模試を受けてみて、自分の実力を知ること。

分からないことがあれば、yahoo知恵袋で聞いてみてもいいし、youtubeの動画をみてもいい、google検索をしても良い。分からないことを、分かるまで考えてみる。

そういう、当たり前を積み重ねれば、東大はすぐそこだ。

 

東大に入ると、就職にとても有利だ。将来めちゃくちゃお金を稼げる。

別にお金を稼ぎたくなくても、東大に入っておくと、将来の選択肢がぐんと広がる。

芸人も、俳優も、作家も、「東大卒」という肩書だけでちょっと注目される。

東大に入ると、有名人と知り合いになれる。

菅田将暉がキャンパスに遊びに来る。ジャニーズが学園祭に来る。

東大に入ると、親もおじいちゃんおばあちゃんも喜んでくれる。

東大キャンパスは、1,2年生のうちは渋谷の近くにあるから、友達と毎日渋谷に遊びに行ける。

奨学金が充実している。地方学生への奨学金は、ほんと充実している。

留学にもいける。

スポーツも、日本一になった大学チームがいくつもある。

 

ちょっとでも「東大っていいな」って思うなら、

どうか、自分の可能性を自分で諦めないでほしい。

 

生きる意味

生きる意味ってなんでしょうか。

そういうことを考えるのが嫌い、という人も多い気がします。

まあたしかに正解がある訳ではないし、そんなこと考えたって仕方ないかもしれないけれど、「自分はこれがあるから死ねないんです」っていうものを見つけておくと、何かあった時に、踏みとどまれるような気がします。

 

自分の中で今のところ一番しっくりきている「私が生きている意味」は、こんな感じです。

"私は「ああこの人のことを幸せにしたい」とか「この人の笑顔のためなら何でもできる」と思ったことがあって、でもまだその人を幸せにできていないので、生きています"

(どうでしょう?あんまり他の方にはしっくりこないですかね?)

 

高校の時の友達の笑顔がすごく好きで、その子の笑顔を見る度に、「まじでこの笑顔のためなら私は自分の命を犠牲にできる」と思っています。そう素直に心の底から思えることに自分でも感動するくらい、思っています。

でも私は彼女に幸せにしてもらってばかりで、あんまり恩返しができていないなあ...今死んだら彼女を幸せにできないなあ...彼女の笑顔をみていたいなあ...と思うので、私は今も元気に生きています。

 

それから、彼氏に対してもそう思っています。彼氏というか元カレなのですが、ほんとうにこの人には幸せになってほしいなあと思っていたのに、彼女としての自分は彼を全然しあわせにすることができなかったので、別の形で彼を幸せにする方法を探すことも、私が生きている意味のひとつです。

 

「ああこの人を幸せにしたい」としみじみ思ったひと以外にも、実は私が生きている理由を構成している人達がいます。

それは、私がたくさんの借りをつくってしまった人です。良い言い方をすれば、お世話になった人です。

親もそうです。祖父母もそうです。予備校の先生もそうです。

この記事↓でも書いたんですが、借りをつくるっていうのは面倒だったり重かったりする訳ですが、結局人間はそうやって借りに縛られることで生きていけるような気もするんですよね。

 

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まあ多分生きる意味が分からないって言ってる方からすれば、他人が生きている意味なんて全然興味なくて、「東大生はそりゃ気楽でいいでしょ!」みたいに思うのかもしれませんけど...

 

海外の友達が言っていたことで、面白いな!と思ったことを紹介します。

「お酒が楽しくて気持ちいいのはなぜか知ってる?頭の回転が遅くなるからだよ。頭の回転を遅くするっていうのは、そのまま幸福感に直結する。実は瞑想とお酒はちょっと似ている。瞑想も、ゆっくり呼吸をして、自分の思考をゆっくりにするんだ。だまされたと思ってやってみて。すごい幸せな感じがするから」

これは全くの彼の持論であって、科学的な根拠などはないです!

でも、頭の回転を意図的に遅くすることと、幸福感とは、本当につながってるかもなあ、と思うんです。

日常の中でばたばたして、なんとなく24時間が終わって、そんな感じで生きる意味なんてない!って言ってる人がいるなら、一度ゆっくりする時間を、無理にでもとってほしいと思います。

ゆっくり深呼吸をして、自分の考えをゆっくりにします。

池の水面を想像してください。波だった水面を穏やかに、鏡のようにするイメージです。20分くらいで構わないので、少し、心を静かにする時間をとってみてほしいと思います。

そうする中で、生きる意味みたいなことって、少しずつ見えてくるんじゃないかなって思います。

すべての人に生きる意味はあって、ただそれを見失っている人がいるだけです。失くしたわけじゃなくて、見失っただけだから、またゆっくり見つければいいだけです。

 

 

男の子になりたかった

 

男の子になりたかった。女の子になりたかった。どちらにもなれなかった。

 

小さい頃から男の子と遊ぶことが好きだった。

小学校で一番楽しかったことは、虫とり、サッカー、かけっこ。

なんで私は男の子じゃないんだろう、と思った。

いつも男の子と遊んでいるのに、着替える時、更衣室は別々で、バカみたいにはしゃいでいる男子更衣室が羨ましかった。

 

中学校は女子校で、次に男の子と会ったのは高校の時だった。

塾に入って、3年ぶりにできた男の子の友達は、なんだか私の知っている男の子ではなかった。

「あの男の子は彼女がいるよ」と言われて、彼女がいる男の子と仲良くすることは、女友達からの反感を買うのかもしれない、と思って怖くなった。

男の子と仲良くなるためには、自分がその子の彼女にならないといけないのだ、と思った。

面倒だな。私が男だったら、男友達として、誰からも文句を言われずに、彼の横に立てるのに。

でも、逆立ちしたって私は男の子にはなれない。私はどうしようもなく女だ。

男好きだと言われるのがなんだか恐ろしくて、彼氏をつくりたいと思ったことはなかった。ただ「女の子が好き」と言い続けた。

 

大学に入って、周りの女の子達に彼氏ができた。

仲が良いと思っていた女の子は、私と彼氏を天秤にかけて、あっさり彼氏を選んだ。

私だって、どうせ女でしか在れないのだから、女としてうまく生きていきたいと願った。

男の子に盲目的な恋をすれば、女の子になれるんじゃないかと思って彼氏をつくってみたけれど、女としての自分を求められることに吐き気がした。

私は彼が好きだったけれど、私は彼の彼女じゃなくて、男友達になりたかった。

私は彼を支えたいと思ったけれど、彼女としてではなく、男友達として、愚痴をきいたり、飲みにいったりしたかった。

私は彼を喜ばせたいとは思ったけれど、女の身体を通してではなく、ただバカなことを一緒にやれる仲の友達として、彼に喜んでほしかった。

 

 

男の子にも女の子にもなれず、私はまだ立ち止まったままだ。

ずっと、誰に会っても、私は私が女であることを恨んできた。

私は女である私を好きになりたい。どうか、女に生まれたことに感謝できる日が、いつか来ますように。どうか、どうか…

 

居場所がない

中高は部活とか強制的に入らされて、クラスに所属させられて、まあ居心地がいいにしろ悪いにしろ、居場所みたいなものがあったわけですが、

大学に入って、クラスがない。サークルもやめちゃった。一人暮らしで家族という居場所もない。学科は人数が多すぎて居場所って感じでもない。

…あれ?私の居場所ってどこだ?

 

居場所がないと感じている人は多分世の中に沢山いて、googleで「居場所がない」と検索をかけるとたくさんのサイトがヒットする。

だから私が今更なにか書いたところで新しいことは言えないとは思うのだけど、居場所ないって、何か書かずにはいられないくらい、やばいですね。

 

中学生のころに、大学生の先輩が「まじで大学に居場所がない」と言っていて、「先輩ぼっちかよw」と思っていた。

高校生のころに、大学34年生の先輩が「メイクしないで大学行く。だって誰とも話さないで毎日が終わるもん」と言っていて、「枯れてるな」と思っていた。

今ふりかえって、当時そんな風に思ったことをとても反省しています。ほんとうに。

大学って居場所がないですね。

 

twitterがかろうじて居場所みたいになっていたころもあったけれど、最近はtwitter見ても全然面白くない。

授業を受ける友達がいても、なんだか「居場所」だという風には感じられない。その授業が終わったらバイバイ。

居場所ってどうやったら作れるんだろう。「居場所がなくなってしまった」と気づいた瞬間から、なんだか足元がおぼつかないようで、ふわふわして、落ち着かない。

居場所ってどうやったら作れるんでしょう。

 

居場所が見つけられていないので、この記事に結論も何もないのですが、強いて言うなら、「居場所がない」と話す人を馬鹿にしてはいけないということです。

「居場所がないのはごく一部の人で、私には関係ないわ」などと思ってはいけないのです。居場所というものは、自らの不断の努力と心優しい周りの環境によってようやく得られるものであることを知り、今あなたに居場所があるなら、居場所があることに心から感謝しなければなりません。

自戒をこめて。というより、ただの自戒です。

 

政治家が、就きたくない職業1位なんじゃない?

政治と東大生

東大生というのは政治家志望が多いんじゃないかという"古い"考えを持っている人も、まだいるらしい。

はて。法学部の友人を思い浮かべてみても、政治家志望を公言している人は1人しかいない。

"隠れた政治家志望者"が実はいるのかもしれないけれど、隠れてどうすんだ。政治家になりたいってそんな恥ずかしいことか。

 

政治を語る時の日本人の在り方って、とっても歪んでいると思う。

アナウンサーはまるで中立であるかのような顔をしてニュースを読み上げる。その報道は偏っているのに、中立という蓑に隠れているみたいだ。

コメンテーターが政治について語る。しかし、そのコメントは本当にその人の考えだろうか?用意されたプロットが見え隠れする。プロットを書いてるのは誰だ?

ネットで政治を語る人は、現実で政治の議論をするだろうか?議論というのは、異なる意見の人と面と向かって、お互いの意見を止揚する試みではなかったか。

かつての若者のように、飲みながら熱く日本の将来を語り、政治家を志して上京する人がいかほどいるのだろうか?

政治的立場を授業中に表明した高校の教師は、「中立であれ」と注意される。この世に、政治的に真に中立であることのできる人など、存在するのだろうか?

公明党を支持してね」と創価学会の人に言われて、なんとなくその友達と距離を置くようになる。一般の人がいかなる政治的信条を持っていようと自由ではないか?政治的意見を発表しにくい雰囲気をつくっているのは私たち自身かもしれない。

ニュースを見ながら政治に文句を言うお茶の間の人々は、無機質なテレビにしかその文句が届かないことを知っていながら、何も行動しない。政治的意見の対立から友情にひびが入ることを恐れているのだろうか?友人といる時に発する意見はせいぜい市議会議員の不倫とか、そんなレベルどまりだ。

東大生は某党の公約をみて鼻で笑いながら、「政治家なんて馬鹿ばっかりね、あんなの相手にしてたら私までバカになる」とでも思っているのか、誰も政治の話なんてしない。…というのはちょっと言い過ぎか...?

でも、東大生に官僚志望は死ぬほどいるのに政治家志望が少ないのは、「日本を良くしたい」という思いはもっているけれど、「政治家じゃ日本を良くはできない」と感じているからなんだと思う。

国会審議中継なんかをみて、「なんちゅうくだらんことに時間を費やしてるんだ。政治家になったらこんなくだらんコトに付き合わなきゃならんのかあ、イヤだなあ」と感じる人は少なくない。党利で動いている人達が、汚くて、頭が悪くて、自己中心的で利己的に見えてしまう。その点、官僚は、終電なんかには当然間に合わない時間まで働いてでも、ほんとうに日本を良くしようとしている。その姿勢が、東大生に響くんじゃないかな。

要は、「将来ああはなりたくないな」という代表格が、政治家になってしまっている。

 

政治家にはもちろん大変優秀で素晴らしい方が沢山いる。

私たちが政治に幻滅しているのは、一部の政治家の行いによるものに過ぎない。きっとその政治家たちは、国民を幻滅させてる自覚なんかないんだと思うけど。

政治家だとか政治家じゃないとか関係なく、「私はああはなりたくないな」って沢山の人から思われていることを恥じるべきだと思う。物怖じしないことと面の皮が厚いこととを、はき違えてはいけない。

 

政治家が就きたい職業にランキングする日は来るのだろうか?

無責任な政治家をここで責めたって何も変わらない。

私たちにできることはなんだろうか?きっと小さなことだ。投票に行くとか、友達と政治について議論して異なる意見に耳を傾けてみるとか、そんなことでいい。

政治が、もっとわくわくするものになるように。政治家はほんとはかっこいいんだ。

 

戦争が始まるかもしれないということ

 

太平洋戦争を経験した人が、言っていたこと。

「戦争前は、とにかくみんなが明るかった。第一次世界大戦も終わって、次に戦争が来るなんて誰も想像していなかった。みんな、何も考えていなかった。

今も、そんな雰囲気になってきたね。」

 

第二次世界大戦で多くの人が死んで各国が反省をしたから、もう戦争は起こらない。

日本は平和主義を掲げているから、戦争に巻き込まれない。

そうだろうか?

私たちは、何も考えていないだけなんじゃないだろうか。

 

北朝鮮からミサイルが飛んできても、2回目には「慣れ」てしまう国民。

それでも、戦争についての議論が活発になったとは思えない。

なぜだろう、戦争を語ることはタブーのようにさえ感じられる。

外国人記者や海外の友人に、「中国と戦争になると思うか?」と聞かれ、「なりうる」と答えた。

「絶対」戦争にならない、100%、0%、そんなことはあり得ない。

明日の天気が70%の確率で雨であるように、未来はいつも、白か黒かではなく、どちらの可能性も含んだグレーだ。

海外の人達は、「中国と戦争になると思うか?」という質問を、自然な質問、当然な質問として投げかけてくる。

少なくとも私は、日本人から同じ質問を投げかけられたことはない。

 

 

太平洋戦争が、第二次世界大戦が起こったのは、軍部のせいではない。

たしかに当時の軍部に責はある。でも、戦争を選んだのは国民だ。

なぜなら、軍部を支持したのは他でもなく国民だったからだ。

「軍部は、国を憂えて行動している。政治家はダメだ。腐っている」

そう書いていたのは新聞だし、そう考えていたのは国民だ。

 

私は戦後に生まれた。たぶん、これを読む人は大抵戦後生まれだと思う。

戦争ってなんだ?いまいちわからない。

今でも北朝鮮と韓国は「休戦中」で、いつ「再開」するかわからないなんて言われても、ぴんと来ない。

核がーとか、ミサイルがーとか、どこか遠い所で起こっている気がする。

でも、考えなきゃだめだ。

全員が考えるのをやめてしまった時、それが本当に戦争が起こる時だ。

だから考えなきゃいけない。

先の大戦はなんで起こったんだろう?経済制裁ブロック経済化...今も現在進行形で起こっていることじゃないのか?

北朝鮮怖い」とか、「まあ戦争は起きないでしょ」とか、そんなことを語るのではなく、自分が"有識者"であることをすべての人に自覚してほしい。

インターネットがあり、図書館があるこのご時世に、勉強しようと思ってできないことなど何もない。

なんなら、東大の授業だって潜れる。時間割だってネットで公開されているから、国際関係論とか平和論とか、そういう授業を探して潜ってみてもいい。

なんだってできる。していないのは、あなたの選択だ。

私たちひとりひとりが、勉強して、"有識者"にならないといけない。

いつまでも「大衆」のままじゃだめだ。

もし今戦争が起こったら、勉強もせずに、まともな意見も発さずに、なにも真剣に考えずに、こうして生きている私たちの責任だ。

戦争の責任を他国や政府に押し付けられると思ったら間違いだ。

 

戦争が起きるか起きないかは、他国の独裁者や自国の首相が決めることではない。決めるのは私たちひとりひとりなのだということを、今一度、思い出す必要がある。

 

 

悲しい時には筋トレしよう

「悲しい時には」シリーズ。

 

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自分の発想がネガティブになっていると感じたら、ジムに行こう。

運動をしよう。筋トレで、自分の身体を変えることから始めよう。

 

運命みたいなものに自分が支配されていると感じたら、自分が自分の在りたい姿じゃないと思ったら、自分の力で自分を変えられることを体感することが一番だ。

突然自分に降りかかる悲しみは避けることができなくて、容赦なく襲ってくるけれど、運命の舵は自分自身が握らなきゃいけない。

残酷さに奪われた舵を、もう一度取り戻すための手段が、筋トレだと思う。

大袈裟かな?

筋トレする人は大体ロマンチストなのです。許して。

 

外に出たくなくても、筋トレ。

それだけで、自分に勝った気がする。

明日からもなんとかなる気がする。

自分で自分を律することは、苦痛ではなくて、快感なのだと知る。

 

身体が変わり始めると、惚れ惚れする。

今日の自分が昨日の自分よりイイ女であることが嬉しい。

 

心と身体は不思議につながっていて、心の在り方は身体の在り方に左右される。

心をコントロールできないと感じたら、身体を変えればいい。

身体が変われば、自然と心も変わる。

 

悲しい時には勉強しよう

受験時代も、今も、私を支えている言葉がある。

大野晋の『日本語と私』という本に出てくる一節である。

 

悲しい時には勉強しよう。勉強は人を欺かない。自分が一生懸命やりさえすれば必ずこたえてくれる。

 

大野晋は旧制一高(現東京大学)の入学試験に、28人中28番目で合格をした。

入学してみると、周りの友人は「父親が外交官だ」とかなんとか、良い家の出身者ばかり。

そんな家の子はドイツ語が当然のように喋れて、もちろんフランス語なんかも流暢で、とにかくものすごくデキるのだ。

それに対して大野は下町の砂糖問屋の生まれである。

 

僕は「多力」と「少力」という言葉を考え出した。多力とは、生家が金持ちで社会的地位も高い人のこと。一高にはいっぱいいた。少力とは、僕みたいに学問を続けることさえ困難な状況の人間のこと。

(中略)

でも勝ち負けが決まるのは最後に墓場で会った時、とそのころは心に念じていたんだ。

 

大野先生に私を重ねるのは不遜かもしれないけれど、ものすごく心に染みるものがある。

やはり東京大学にいると、「お父さんもお兄ちゃんも外務省のエリート、おじさんは〇〇病院の医院長」とか、「おじいちゃんもお父さんも大学の有名教授」とか、そんなのがごろごろいてびっくりする。

私の家は父も母も地方の高卒。それを恥ずかしく思ったことはないけれど、「少力」か「多力」かで言えば、「少力」の方だろうと思う。

 

高校で塾に入った時に、周りがあんまり勉強できるので衝撃を受けた。

そういう子たちは中学1年生のころから塾に通って勉強しており、到底追いつけないなと感じた。

私は最下位で入塾試験を突破して、ものすごい劣等感の中で「勉強をするしかない」と思った。

大野晋の言葉を教えてくれたのは、その塾の先輩であった。

 

私は「少力」である。

帰国子女みたいに英語がべらべら喋れるわけでもない。

数学は万年びりで、毎回満点のあの子には敵う気がしない。

悲しい。

しかし、悲しい時には勉強をすればよい。

勝ち負けが決まるのは墓場で会った時である。

今は力の差に耐えて、耐えて、涙を拭くようにこつこつと勉強をすればよいのだ。

 

考えてみれば私は中学受験の時も補欠合格で、ほとんど最下位合格だった。

でも、高校3年生の模試では、文系で学校1位をとったし、全国は2位までしかいけなかったけれど、まあ2位まではいった。

要は、勉強は常に私の味方であった。

自分の生まれも、親も、性別も、生まれ持った才能も、選べないし変えられない。

世の中は実際、不条理で不平等だ。

けれど、勉強は、勉強だけは、やればやるだけ答えてくれる、たしかな味方なのである。

 

 

 

夏だ。気持ちのいい恋をしよう。

 

当たり前だけど、誰かを好きになるときには条件も留保も約束もなしにとことん好きになった方が気持ちいいのだ。

 

     舞城王太郎好き好き大好き超愛してる

 

 

無条件に誰かを骨の髄まで好きになること。

奢ってくれるから好きとか、構ってくれるから好きとか、そういうのじゃなくて。

彼は私に何もしてくれないのに、それでも好きが止まらない。

自分で自分の感情が全然コントロールできない。止めようとしたって無理。溢れてきちゃうものは仕方ない。

些細な彼の仕草でさえ感情がぐちゃぐちゃにかき回されて、なんで私はこんな人がいいんだろう?って不思議になる。

彼とのあいまいな関係が続いていく保証なんてどこにもなくて、約束に支えられていない不安定な将来を想って、今がずっと続けばいいのに、なんて思う。

 

そういう好きは、楽しくて嬉しくて悲しくていらいらして寂しくて切なくて、気持ちがいいのだ。

 

人生に一度きりの夏だから、気持ちのいい恋をしよう。

 

 

ひとごと

 

いつまでたっても私は受動的だ。

何か面白いことないかなって、世界が動き出すのを待っている。

世界を動かすのは私なのに。

 

ふと泣きたくなることがある。

自分はなにもかわいそうじゃないのに。

 

日常がつまらないとぼやく。

楽しくするのは、自分の心の持ち方ひとつなのに。

 

まるで全部が他人のせいであるかのようだ。

まるで全部が、自分とは遠い所で決められているかのように、諦めている。

 

じぶんのことなのに、「じぶんごと」だと捉えるのは意外と難しい。

自分が幸せかどうかは自分の心が決めているのだということを、しばしば忘れる。

 

自分の人生の主導権を手放してはいけないのだ。

流れが急な所でこそ、しっかり自分自身が舵を握らなければいけないのだから。

 

 

自分らしさみたいなもの

 

明るくふるまっていると、おとなから「無理していない?大丈夫?」って、友達から「困ったら頼ってね」って、言われる。無理してるように見えるのか。

「あの子ぶりっこだよね」って思われたくない。

自然体でいるように周りから見えるように、裏表のない人間だと思われるように、

いい人すぎると裏があると思われるから、わざと辛辣なことも口に出すことで、裏表のなさを演出。

言葉遣いを男っぽくすることで、ぶりっ子だと思われないように、さばさばしたひとを演出。

めんどくさがって、てきとーにふるまうことで、自然体でいる感じを演出。

結局、周りを気にして、自然体からどんどん遠ざかっていった。

「自然体でいる」と見られるために、自分を自然体から遠ざけた。

偽善ならぬ、偽悪

 

まあ結局、損するのは私自身。

友達がてきとーすぎて悲しくなって、類は友を呼ぶってほんとなんだ、と思う。

 

 

私は誰になんといわれようと、私でいればいい。

自然体でいると思われたいのなら、自然体でいればいい。

明るくふるまうのは、私がそっちの方が楽しいから。

まじめに取り組むのは、そっちの方が楽しいと知っているから。

ひとの悪口を言いたくない。自分のために。

全部、私は私のためにやるんです。私は私のために、私の在りたいようにあるんです。

他人なんか知ったこっちゃないんです。

自己中心で上等。悪いけど、私の世界の中心は、驕りでもなんでもなく、事実、私なんだから。

 

処女とかヤラハタとかビッチとか

 

ヤラハタになりたくないからセフレでもつくろうかな、と言った女友達がいる。

処女の価値ってなんだろう。

20にもなって処女だということは恥ずかしいことなのかな。

 

ふと、ビッチになりたい、と思う時がある。

いろんな男の人と寝ている女の子の話を聞いて、軽蔑と羨望を同時に抱く。

ももっと早く処女を捨てていれば、もっと気軽に男性と寝たり、そういう人生の楽しみ方もあったのかもしれない、と思う。

一日ビッチな子と体を交換して、てきとうな男性と寝てみたい。そんな風に思ったりもする。それっておかしなことなのかな。

 

私の中高は女子校で、性教育で何を教わったか全く覚えていない。

何を教わればもっと性に自然に向き合えるのかなんて分からない。

大学生にもなって自分の性をもてあましているのは、完全に「女子校拗らせ」だよね、と笑う。

でも、女子校じゃなくても、私はやっぱり自分の性への向き合い方を知らないと思う。

処女膜ってなんだよ。生理はいっちょまえに毎月訪れやがって。ちょっと自分の身体にツッコんでみたりする。

ボケとツッコみって意味で、別に物理的に突っ込むわけじゃないよ。

 

三島由紀夫の本を読んでいて、処女膜があるのは人間とモグラだけなどという記述に出会った時は驚いた。

事実じゃないらしいのだけれど、人間とモグラにしか処女膜がないのを想像するとなんだかとても可笑しい。モグラって。笑える。

 

性の問題って、誰かと面と向かって話す機会がないから、「こう思ってるのは自分だけなのかな」と不安になる。

「みんなはいつセックスしたんだろう」。知りたいのは統計とかじゃなくて、自分の所属している女の子グループの相場感だから、調べようがない。聞くのもはしたない気がして聞けない。

インターネットで知らない人が自分と同じようなことを考えていると、ほんのちょっと救われる。これも私だけかな。どうか他の人にとってもそうでありますように。

 

 

元カレや好きな人を忘れる方法

元カレや好きなひとを忘れるのって、難しいですよね...

 

基本的なアドバイスの一つに、「彼と会わないようにしましょう」というのがあります。「人間は会わなければだんだん忘れていく生き物」とかなんとか。

とはいえ、ほんとうに好きな相手と、「もう会わないぞ!」って決意することそれ自体が大変難しい。それが決意できてれば「忘れたい」って悩むこともないんです。

 

彼と一緒に行った場所を通るたびに彼のことを思い出してしまう。

夢に彼がでてきて朝起きて泣く。

お風呂に入っているときにふと悲しくなる。

twitterで彼のツイートがRTされて回ってきた...

facebookで彼の新しいプロフィール写真がいいねされて回ってきた...

 

とにかく、どれだけ忘れたいと思っていても「思い出してしまう機会」が生活の中にたくさんあるんです。

 

では、どうしたら忘れられるのでしょうか?

私が、効果があると思ったものをいくつか紹介します。

 

①彼の幸せを心から願う

元カレの場合、彼を責める気持ちがありませんか?

好きなひとの場合、彼から愛を奪おうとしていませんか?

 

彼とお別れしたことは、彼にとっても、自分にとっても、ポジティブなことだと考えましょう。

「夜をいっしょに歩いたから、朝が来たらお別れ」

彼と苦しい時間を共に支えあって、幸せな時間を紡いできたでしょう。

明けない夜はないのです。

彼にも、自分にも朝が訪れようとしているから、2人はもう2人である必要がなくなったのだ、と考えてみてください。

これから朝が来ます。彼も、自分も、1人で歩いていくことができます。

あるいは、朝にふさわしい、新しいパートナーの季節なのです。

 

好きなひとの幸せを、私はこんなに純粋に願っている、と思うでしょう。

でも、ほんとうに純粋に相手の幸せを願っているときは、苦しくならないはずなんです。

もしあなたが、苦しい、つらい、と感じているのだとしたら、それは「私がこんなに愛を与えているのに、彼は私を愛してくれない」と感じているからです。

与えたものを全部返してもらいたい!という気持ちでいるうちは、彼のことを忘れられません。借金のとりたてやのごとく、ねちねちと彼のまわりをつきまとってしまう結果になります。

もちろん、自分は相手の幸せを心から願っているんです。その気持ちに嘘はない。でも結果として、相手からの愛を期待しつづけていくことは自分自身を苦しめるんですよね...

ということで、「相手からの見返りはなにも要りません!」という気持ちになることが、彼を忘れる第一歩です。

難しいですが、これができれば、人間として大きく成長する一歩を踏み出したと言えるのではないでしょうか!

 

②執着をたつ

「忘れたいのに忘れられない」「諦めたいのに諦められない」というのは、まあ簡単に言ってしまえば執着ですよね

 

元カレを忘れられない、好きなひとを忘れられない、という女性に多いのが、「部屋に持ち物が多い、断捨離が苦手」という方ではないでしょうか?

私自身、使い終わった修正ペンとか小学校の時の遠足のしおりとか、もう絶対使わない、見ないようなものでも捨てられずに大切にとっておく習性があります笑

 

出会いがあれば別れがあります。

急接近した相手なら、急に距離が離れることもあるでしょう。

離れていくものは仕方がありません。物を捨てる要領で、人もぱっと諦めることが肝心です。

 

コツは、川をイメージすることだと思っています。(友人の受け売りです笑)

ゆったりと流れる川です。底に、がらくた(自分にとっては宝物)がたくさん沈んでいます。

それを、ゆっくり、大きく、押し流していくイメージです。

流れたものは、当然帰ってきません。でも、いつかは流れるものです。底に沈めたままでは、腐って錆びてしまいます。

自然の摂理に身を任せるような静かなきもちで、いろいろなことを流してみてください。

 

③時間が経つのをひたすら待つ

自分で自分の気持ちがどうしようもない時は、時間が経つのをひたすら待つしかありません。

3年も経てばたいていのことは忘れます。そういうふうにできているんです。

その間つらいでしょうが、耐えるしかありません。

焦らないことです。

1年たっても忘れられないでいる自分を発見しても、めげないことです。時間は必ず解決してくれると信じて、待ちましょう。

 

 

以上、元カレや好きな人を忘れる方法を3つ挙げてみました。

忘れられないとき、とてもしんどいと思います。

注意すべきは、悲劇のヒロインになって、いつまでもつらい状況に甘んじてしまわないことです。

つらい、悲しいと思っている自分ではなく、楽しい、幸せだ、と思っている自分を目指してください。

女の子は泣いて強くなるんです!

 

嫉妬

 

あの子は明るくて、優秀で、誰に対しても差別なく接する。

あの子の笑顔はみんなを幸せにする。

そんなあの子に惹かれる人は多くて、私もあの子に惚れた人間のひとり。

ああなりたい、と思って、昔の私はもっとああだったのに、と思った。

 

嫉妬することが多くてイヤになる。

あの子なら、きっと嫉妬はしない。素直に他人を称賛できる。

たぶん、自分の価値に自信があるから、他人の成功を素直に称賛できるんだと思う。

 

私も、あの子のように魅力的なひとになりたい。

自分が在りたいように在れないことにイライラする。

自分がありたいように在れないから、いろんな人に些細なことで嫉妬する。ばかじゃないの。醜い。

 

まわりがきらきらしているのを見るたびにみじめなきもちになる。

こんなはずじゃないのにって。もういやだ。

醜い私はもうイヤ。きれいになりたいよ。