一応、東大女子ですけど、すみません

恋愛とか人間関係とか、ふつうの東大女子による些細なあれこれ。

0.01点の重み

教え子のひとりが0.01点で東大に落ちた。

 

もし、受験中に、「このままだと0.01点であなたは落ちてひどく後悔することのなりますよ」と伝えられたら、彼女は受かったんじゃないかと思う。

 

1点に対する執着が、合否をわける。

 

学校のテストでも、模試でも、点数のつかないただの練習でも、問題に本気で向き合って少しでもよいものを書くという精神が大事だ、と思う。

 

 

大学生は親と喧嘩する

親と喧嘩をするのは中学生くらいまでだろうなって思っていたけど、

実際大学生になってみると、中学のときより、親と喧嘩をしている友人が多い気がする。

 

大学生の「一人暮らししたい」の理由は、

「家に友達を呼びたい」「通学に不便だ」だけじゃなく、

「実家の居心地が悪い」「こんな家出たい」だったりもする。

 

考えてみれば、大学生が親と喧嘩をするのは不思議なことじゃない。

①まず、親は娘や息子がもうすぐ社会人だということを意識する。

「社会人になったとき我が子が困らないよう、あれもこれも一人でできるようにさせなきゃ」と考えるのが親心。

これまで「お勉強だけしてればいいいわよ」だった母親が、急に「料理しなさい」「掃除しなさい」と口うるさくなる。

②一方で、大学生は忙しい。

たとえその忙しさの原因が遊びだったとしても。

とにかく大学生は「めちゃくちゃ忙しい」と感じている。サークルのアフターで飲み会から帰れば疲れている。

家事やらなんやらよりも大事なことが沢山あるから、「そんなことしてる暇ないよ!」となる。

 

③そして、何よりの喧嘩の原因は、

親が大学生を大人として扱うと同時にこどもとして扱うこと。

 

「もう大人なんだから自己管理くらい自分でしなさい!」と言いつつ、

「なんでこんなに帰るのが遅いの!?10時までには帰りなさいって言ったでしょ!」と言う親に、子供はうんざりだ。

「10時に家に着くには9時には飲み屋をでなきゃいけない。そんなの、何も楽しめない。もう大学生なんだから自由にやらせてよ!」と、まあ喧嘩になる。

あるいは、

「あなたを早く家に帰らせない彼氏なんて、あなたのことを想ってないのよ。そんな人別れなさい」とか親に言われる。

これは確実に喧嘩になる。

大学生は、親に「彼氏と別れなさい」とか「あのお友達とは遊ばないようにしなさい」とか言われるのを極度に嫌う。

「私はもう幼稚園児じゃないんだよ!交友関係くらい自分で選ばせてよ!私の友達を悪く言うな!」という感じ。

 

つまるところ、大人としての義務をおしつけると同時にこどもとして自由を制限し管理しようとする親の矛盾が許せないのだ。

 

解決方法は3つあると思う。

①親が寛容になること。あなたの子はもう二十歳だ。信じてあげてほしい。

②子供が「矛盾」は愛が形を変えたものであることに気づくこと。

親の愛は無償の愛と言われることもあるように、論理を超越してる。

そこにロジックを求めてはいけない。むしろ愛は往々にしてロジックに反する。

ただ、愛されているという事実があるだけなのだ。

 

これで解決しなかったら仕方ない、③一人暮らしをする。

 

悩んだとき、進路の決め方

高校生のとき、文系にするか理系にするかで死ぬほど悩んだ。

どっちが正解かなんて誰にも分らない。

将来のことなんて、誰にも分らない。

 

「大きな決断をするときのコツはね、」

彼女は秘密の魔法を伝授するみたいに声をひそめて言った。

「コツはね、一度決めたら、もう悩まない!って決めちゃうことなの。」

 

誰も正解は知らない。

悩んだって正解がわかるわけじゃない。

だったら。直観でびびっと決めてしまえばいい。暴論だけど。

そして、「もう私はこうすると決めたんだから、絶対に悩まない」と心に誓う。

なんなら、声にだして、親や友人に宣言してもいい。

 

あとから、「あの時こうしていれば」って後悔することなんて山ほどある。

あとから、結果を知ってからだったら、なんとでも言える。

でも、決断をしなきゃいけないのは、結果を知らない、いまの自分だ。

 

目標なんてなくていいさ 気づけば後からついてくる

可能性という名の道が いくつものびてるせいで

散々迷いながら どこへでもいけるんだ

 

BUMP OF CHICKENの「ダイヤモンド」という歌を、進路に悩んだとき繰り返し聴いていた。

目標なんてなくていい。

高校生や大学1,2年生の段階で明確な目標がある人のほうが少ない。

たかだか20年もまだ人生いきてないんだから。

とにかく何かやっていれば、目標は後からついてくる。心配しすぎないことだ。

 

可能性という名の道は、いつだって幾つもいくつものびている。

あなたは今、その岐路にたっているように感じる。

どの道も、先がどうなってるかは、自分で歩いていってみないとわからない。

散々迷うのは、たくさん可能性があるから。

そして、このたくさんの可能性のうち、正解はひとつしかないように感じるのだけど、

実は、どこへでも行けるんだ。

 

たとえば、理系で大学に入って、いったん卒業して、やっぱりもう一度文系として大学に入りなおした人を知っている。

道をひとつ選ぶことは、なんとなく他の可能性を捨てることのように感じてしまう。

でも、実はそんなことはなくて、後からでも「その場所に行きたい」と願えば、

違う道を辿って、辿り着くことができる。

 

コツは、一度決めたら、とりあえず振り返らずに歩き始めてしまうことだ。

「とりあえずこの1年は、こうしてみる」と思ったなら、1年はその道を歩いてみる。

歩いてみて、やっぱりだめだ、と思ったら、またその時考える。

何歳になっても、決断に遅すぎるということはない。

 

 

 

浪人するか すべりどめに行くか

自分の番号がなかったときの、頭が真っ白になる感じをいまだに覚えている。

自分の番号を見つけたときの、腹の底からほっとするような喜びは、もうはっきりと思い出せなくなった。

 

後輩から、

「一浪して東大を目指すか、それとも早稲田や慶應に行こうか悩む」

と相談されることがある。

私は浪人したことがないし、早稲田や慶應に入学したこともないから、正直なところよくわからない。

 

「一年なんて誤差だ」と思う。

人生100年。1年や2年遅れたからってなんだ。

どうしても東大がいいなら浪人すればいいじゃない、と思う。

それに、東大生は結構留年する。

私の周りでも留年生は少なくない。

1年留年するんだったら、1年浪人するのだって同じだ。

不合格が死ぬほど悔しいなら、1年間本気で勉強して、見返してやればいい。

きっとその1年は無駄にならない。

 

同時に、「東大は、一年浪人してまで入る価値のある大学なのだろうか」とも思う。

きっとその1年は苦しい。

浪人したからって絶対合格する保証なんてない。

早稲田や慶應や一橋や東工大だって、いい大学だ。学生は楽しそうにしてる。

あなたが大学でしたいことは、東大でなければできないことだろうか。

サークルでわいわいしたい、部活動に打ち込みたい...それなら東大じゃなくてもいい。

東大の授業の中にはつまらないものも沢山ある。一流の教授は研究が一流なのであって、教え方が一流ではないから。

東大には女の子が少ないから、満足な恋愛ができなくてがっかりするかもしれない。

 

東大生から言えることは、この程度しかない。

結局、答えは自分自身で決めるしかないから、私はこれ以上のことは言わない。

私の中に答えはない。親の中にも、恩師の中にも、google先生の中にもない。

答えは、あなたの中にしかない。

 

 よかったら、参考にしてほしい記事。

 

beyond21.hatenablog.com

 

年をとったらとるだけ透き通る場所はどこ?

好きな歌の話。

 

私がフラカンに出会ったのは、たしかspitzのライブに行ったとき。

急に知らんおっちゃんが出てきて、知らん歌を歌い始めた。

べつに歌はうまくない、顔が整ってるわけでもない。

でも、びっくりするくらい、かっこよかった。

 

www.youtube.com

 

あんまりみっともないくらい必死に歌うから、最初はちょっと笑っちゃって、そのあとで涙がでた。

この曲のほかのyoutubeをみると、ボーカルのひとが流血して顔どろっどろになりながら必死の形相で歌ってる動画も出てくる。

なんでこの人はこんなに必死に歌ってるんだろう。なんでこんなに必死になれるんだろう。

死に物狂いでなにかをするってことは、かっこわるいことだと思っていた。

 

年をとったらとるだけ 増えるものは何?

年をとったらとるだけ 透き通る場所はどこ?

十代はいつか終わる 生きていればすぐ終わる

若さはいつも素っ裸 見苦しいほど ひとりぼっち

 

歌詞の一部、とっても好きなところ。

年をとったらとるだけ、どんどん頭でっかちになっている気がする。

なんだかどんどん濁っていって、何もかもが見えにくくなっていく気がする。

年をとったらとるだけ、透き通る場所なんてあるだろうか?

見苦しいほどひとりぼっちな私は、その孤独とばかみたいに正面から向き合って、どこか、透き通る場所を探したかった。

だって、もしそんな場所が自分の中に見つけられたら、それだけで、生きる意味に十分な気がするから。

 

傷つきたくない

現実がどんな結果を運んできても傷つかないように心の準備をするのに必死で、

保険をかけるのに必死で、ほんとうの自分の気持ちがどうか分からなくなってしまった。

 

親友と、ずっと仲良くしたい。この人を失いたくない。

でも、相手はそう思ってないかもしれない。

傷つかないように、期待しないことにした。

「どうせ人間関係なんていつか終わるんだよ」

傷つかないように、諦めた。

あとには、親友が離れていって「ほら、やっぱりね」と諦めたように笑う私が残った。

ほんとうの気持ちは箱に鍵をかけて心の奥にとじこめたから、悲しいなんて気持ちはおこらない。

ただ、涙は鍵をかけられないから、涙だけがわけもなくぽろぽろ落ちて、

「あれ、悲しくなんてないのに、なんでだろう」って。

 

 

自分を傷つかないようにするのに必死で、ほんとうの気持ちがわからなくなった。

大人になるってそういうことなんでしょうか。

もしそうなら、私はどうか、こどものままでいたい。

生きにくさ

兎角にこの世は生きにくい。

 

それを何かのせいにして生きてきた。

たとえば、私が生きにくいのは性別のせいだ、みたいに。

そうじゃなく、この世そのものが生きにくいものなんだってことにようやく気付いた。

なーんだ。私だけじゃなかったんだね。

 

誰もが生きにくさを抱えてそれでも生きている。

「自分がもし〇〇だったらもっと生きやすかったのにな」と夢想することは簡単だけど、たぶん、生きにくさから逃れることはできない。

 

だったら、それを愛していくしかない。

そう覚悟を決めてしまったら、気が楽になった。

大学受験とは一体なにか

自分自身は中学受験と大学受験の経験があり、いまもアルバイトで大学受験の指導をしている。

毎年たくさんの学生が合格し、同時にたくさんの学生が落ちている。

それを見るにつけ、考える。

 

大学受験とは、一体なんなんだろう。

 

ある先生曰く、「18年間の総決算である。」

 

「中高6年間、他の人より勉強をしましたか?」ということを聞かれるのが大学入試だろうか?

たぶん、それを聞いてくるのは、全国模試。

模試で緊張しない学生が、ときに大学入試本番で緊張するのはなぜか。

模試でよい成績だった学生が、ときに大学入試で失敗するのはなぜか。

「あなたはこれまでどうやって生きてきましたか?」と訊ねてくるのが大学入試だからだ。

 

各大学が独自の試験問題をつくる。

その問題たちは、「こんなひとがほしいです」という大学からのメッセージだ。

「あなたはどんなひとですか?」という大学からの問いかけだ。

ただ勉強のできる学生が合格するわけじゃない。

その大学のメッセージに合う学生が合格するのだ。

 

自信をもってほしい。

今更じたばたしても、結果は変わらない。

あなたがこれまでどうやって生きてきたかを、解答用紙に全部ぶちまければいい。

それができれば、結果はどうであれ、悔いのない受験であったと言えると思う。

 

 

好きの定義

「好きの定義とか分かんないけど、このきもちを好きって言うんだってことは分かるよ」

 

好きの定義が完成していたら、たぶん世の中から小説や音楽の半分くらいが消えるだろう。

今日まで誰も完成させることができなかったから、また新しい小説が、音楽が挑み続ける。

 

得意げに惚気話をする男の子を、心から尊敬する。

盲目的に恋してる女の子を、かっこいいと思う。

彼らは、「好き」とはなんであるかを知っている。

 

ひとを愛せるのがひとだとしたら

少女漫画は言う、

「幸せって、お金でも名誉でもなく、ひとを愛せるってことなのかもしれない」。

 

私はその度に傷つく。

心がえぐられて、血がにじむような苦しさがある。

 

ひとを愛せないひとは、幸せにはなれないのですか。

 

自分の気持ちほど、自分の思い通りにならないものはない。

このひとを好きになりたい とどんなに強く願っても、好きになれない。

 

これまでの人生で誰も好きになれなかった私は、

これからの人生でも誰も好きになれずに死んでいくのかな。

私はとても怖い。

 

「誰かを心から愛せないひとは欠陥品だ」

「真の幸福も知らないなんて、かわいそうね」

そういう言葉がどこからともなく聞こえてきて、私の心を縛る。

 

ひと愛せるのがひとだとしたら、私はひとになれない。

ひとになれない私は、ひとから価値を否定され、憐れまれて、生きていかなきゃいけないんだろうか。

 

誰かを心の底から好きになりたいという切迫した願望を抱えて生きることは苦しい。

 

私もいつか、あなたのように、ひとを心の底から好きになれる日が来るかな。

 

私にはこのひとしかいない

ある友人が最初の彼氏と付き合い始めたとき、

「わたしのことを好きって言ってくれるひとなんてこの人くらいしかいないから」

と言っていたのを覚えている。

当時のわたしは、そんな理由で付き合うなんて違う、と思った。

 

でも、今のわたしはそうは思わない。

「わたしのことをこんなに好きと言ってくれるひとはこの人しかいない」という感覚なしに付き合うなんて不可能だとまで思う。

そうでなければ、「他のひともわたしのことを好きと言ってくれるけど」という感覚であるのならば、

相手をいつも他のひとと比較して、どのひとが一番自分にとって都合が良いかを考え続けることになるのではないだろうか。

条件を並べて、数量的にひとを比較しあうその中に、果たして恋は愛はあるだろうか?

 

このひとしかいない。比較ではなく、このひとしかいないんだ。というどんづまりの感じの中でしか、愛は生まれないのかもしれない。

 知らんけど。

 

はるはあけぼの

今年も 春一番が吹きました。

 

思ったこと考えたことの些細な記録。